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目次 /ページ内リンク

1. ベーシックインカムの定義
2. ベーシックインカムの現在地
3. 働かざる者は喰うことなかれ
4. 社会システムと雇用の変化
5. 財源を消費税に求めるプラン
6. まとめ

※独自に付けた見出しです。



ドイツフィルム「文化衝動としてのベーシックインカム」 Grundeincommen Kulturimplus 日本字幕版

ベーシックインカム / 生活基本金 文化運動としての生活基本金制度 BI 映像によるエッセイ

ダニエル・ヘーニー&エンノ・シュミット共同制作 邦訳:吉田和彦


1.ベーシックインカムの定義

 所得とは、翼の周りの空気のように無条件に存在すべきものです。ベーシックインカムによって所得は市民の権利となります。ようこそ。この地上にお生まれになりました。誰もが多かれ少なかれ所得を得ています。そうでないと人は生活できません。では、どのような条件で所得を得ているのでしょうか?どのようにして人々は今日、所得を得ているのでしょうか?


 10人中4人のドイツ人は所得を得ています。それは賃金労働に従事しているからです。その労働で生活資金を得ることができるので賃金獲得目的の労働です。10人中約3人は家族から収入を受けています。とりわけ子供や青少年がこれに当たります。10人中約2名は年金や恩給による生活です。そして残りの約1名は失業保険や生活保護を受けています。これらすべての収入が賄われているのです。しかし実際にはたった41%の市民しか賃金労働に従事していません。それ以外は別の収入を得ています。それは譲渡による収入-すなわち仕事とは直接関係のない収入です。そう考えれば生活基本金制度 BI もそれほど特別なことではありません。聞き慣れないのはそれが無条件であるということです。


 でも所得を得るために条件に縛られることが時代に合っていると言えるのでしょうか?

 「各々がそれなりに頭を働かせて、ある程度、事を判断できれば予想がつくことですが、今の労働市場では将来社会制度で人々の調和を保つことができなくなってしまうということです。生活基本金というテーマが頭に浮かんだ時、まず考えてしまうのは、それを経済成長とだけ結びつけることです。今日それが現実的で政治的な考え方です。右から左のどの隅々に至っても経済成長のことしか頭にないのです。つまり人は量的にしかものを考えず、それが原因となって新しくクォリティーの高い社会制度モデルを質的に構想することを押しのけてしまっているのです」


 労働市場の拡大が経済成長につながるとは今日、もう言えません。それどころかそれは間違いです。いずれにせよ経済的成長の前提となるのは購買力の存在です。つまり誰もが、お金を持っているということなのです。


 世界最大の財産管理会社と世界最大級の銀行の最高責任者、クラウス・ヴェラースホーフ氏は無条件の生活基本金についてどう考えるでしょうか?

 「人々に対する条件無しの援助についてですか?勿論、それは将来に継続されるべき根本原理にかわりないはずですが、私達が抱える様々な課題を考えると難しいことです」




 それはつまり、どんな課題のことなのでしょう?恐らく職場を確保することでしょうか?政治家は皆それを望みます。が、仕事そのものについて考えているのでしょうか?それとも税収入のこと?社会保険の受給者を増やさず国の経費が増大しないように...と?


 「でもね、費用増大の原因となる「悪い国家」という風にではなくて様々な成果がもたらした必然的なものと考えてみましょうよ」




 その成果がもたらした必然性、それは合理化です。それは自宅の前でも行われています。もし所得が保障されたらあなたは何の仕事をしますか?

 将来どう発展してゆくべきかを考える時、この生活基本金に関する問いが生じます。ベーシックインカムには異なったモデルがありますが、関連組織すべてに共通する生活基本金の定義は国家に属するすべての人に無条件で支給される所得である、とういことです。



 そこには4つの基準が掲げられています。

 【生活基盤を保障し社会生活を可能にする】

 【個人に合った権利を現実化する】

 【何の審査も無しに支給する】

 【就労を強いない】


 ここで言っておかなければならないことは、生活基本金によってすべての人にとってお金が増える訳ではないということです。天から舞い降りて既存収入の上に被さるのではなく、その既存収入の中で成長するものなのです。賃金所得は少なくなります。収入総額に変わりはありませんが、内容が違うのです。生活基本金は性格の異なる収入です。最低賃金とは違います。報酬でもありません。仕事とは関係ないのです。人間そのものに支給されるのです。どんなことがあっても。


 「個人を抑圧する共産主義だとか個人が孤独に陥る市場自由主義とは異なって、ベーシックインカムに於いては個人が自分で決断でき得る最大限の自由の確保を保障できなければなりません。それは所得の保証によってのみ可能ですし、収入を得る他の仕事をしなくても生活可能な金額でなければならないのは当然です」



 それはまた、他人との関係を同じ目の高さで築くことの前提条件にもなるわけです。今日、社会保障に頼る殆どの人は自身の生活基本金によって解放されます。ベーシックインカムは国の支給能力を最高限まで補うことができます。その限度を超えた社会保障が必要な場合にのみ、その分を受け取ることができます。基本金に困ってお金が増えるのは、今日あまりお金のない人達です。それはとりわけ子供や青少年、つまり家族ということです。或いは僅かな年金で生活する人、収入の少ない労働者や自営業の人などです。生活基本金は貧困を除去し保障された基盤によって中産階級を安定させます。年老いることも怖くなくなります。この基本金は誰かが他の人と契約して譲渡するようなものでなければ急に必要になってから支給するものでもなく、すべての人の将来を見通したものなのです。


 ベーシックインカムはより良い人間づくりを想定しているわけではありません。そういう問題はお金では解決しません。でも人間にとって今までより多くの問題解決が可能です。


2.ベーシックインカムの現在地

 トーマス・ペインは人権擁護運動の創始者であり、アメリカの建国に携わった一人です。アメリカ合衆国というのは彼の命名です。彼が出版した「コモン センス」(健全な人間の理解力)においてペインは北アメリカ植民地のイギリス王室からの独立宣言を推し進めました。彼は世界中の初期の民主主義的考え方に大きな影響を与えました。


 「私達は、すべての人間が平等に創造され、そうの創造主から生活、自由、幸福、という譲渡することの出来ぬ権利を与えられているという真実を知っている」


 人間の権利。昔は言語同断でした。でも今日でも同じです。平等な人間存在の権利を説くなんて馬鹿げています。まだありませんから...。権利は財産を所有している人が持っていますから財産のない人はちょっと生意気になるしか仕方がありません。人間の権利?つまりそれは奴隷を解放することです。そしたら誰がサービス業をやるのでしょう?


 お金にも名誉にもならずに嫌がられる力仕事を誰がやるのでしょう?


 そうした心配を人はします。例えばベーシックインカムにおいて...経済は破綻し社会は混乱。でももっと大変だった時があります。それは地球が丸いって解った時なんです。教会は地が円板だと永く信じていました。それは混沌とした水に囲まれており、誰かが円板の淵にまで行こうとすれば突然、その水の中に落ちてしまうのだと言われていました。また地は屋根のように天空に覆われ、その上を星が巡り、そして更にその外側では人間の杞憂を司るとてつもない力が天を支配すると考えられていました。それと同様に今日、私達はお金と経済を見ています。地が円板であるということが当時の世界観、秩序、安全保障のすべての基礎になっていました。新しい意見も聞かず、地は円板でその上に人が存在するのだと言われ続けてきました。


 では地が円球だったらどうなってしまうのでしょうか?


 それが解った時でも勿論、地球は宇宙の中心で、自転しているなどとは思われていませんでした。だから惑星の軌道の法則性をつかむことが限りなく困難になってしまったのです。このように人がどこに観点を見据えるか...といういことがいつも重要なのです。ベーシックインカムもまったく同じです。困難になってしまうのは自分自身の「動き-可能性」を知らないからです。理解の限界に達した時、見栄えは良いが実はイデオロギーに包まれた既存の事柄からものを判断していたのではもう先へは進めません。でもまず人間について、そして今後の発達について考えれば、事は簡単になります。様々なシステムは自らの正当性を主張し、他のシステムに変わることは不可能です。でも人間ならこれは可能です。


 「ベーシックインカムはオーストリア、スイス、ドイツでテーマとして話し合われています」


 「もう、時が満ちているんじゃないかしら」
 「人間の尊厳が奪還されることになるんだよ」
 「贅沢するためにあるのではないんです」
 「ベーシックインカムは何と言っても我々が今抱える社会的緊張の増大を抑える効果があるんだよ」
 「結局、多くの人がしたくもない仕事をやってるんだわ。すると人は、そういう人こそが職場を占領し本当に働きたい人には職場が無いと考えます。働くことを望むのか望まないのか、それを言う決断が自身に与えられた時、社会に動きが生じます」
 「でも一番凄いことは、人生が終わりに近づいた時に、この人生でやりたかったことがお金が無くてできなかったという言い逃れがもうできなくなってしまうことだわ」
 「諸君、誰が親が望むためにのみここで勉強しているのだろうか?どんな社会の中で我々は生活したいのか?こんな疑問を持てないのであれば、コンピューターとだけ付き合えば良いのさ」
 「このテーマに取り組んでいるイニシアチブはもうたくさんありますよ」
 「そんなの無理に決まっているよ。いや、絶対に無理だよ。報酬が保障されてしまったら仕事をやる気なんかなくしてしまうよ。まったくなくしてしまうだろうね」
 「賃金労働によって人は病気になります。何故なら、これは経験的に言えることですが労働の時間がどんどん制約され人がその中で圧迫されているからです」
 「根本的にベーシックインカムは束縛の無い社会をもたらします。これこそ最重要です。賃金労働の束縛から放たれ、自主性へと向かいます」
 「でもね、どうせ後になって出る問題は、どうやって賃金を調達するかってこと。だってお金がどこかに無いとできないでしょ」
 「でも経済学者として、これは可能だと言えますよ。」
 「ただ大変なのは、これを実行するためのノウハウを皆が学ばなければならないことです。それはただごとではないし経験もありません。資金の調達方法そのものはもう解決しています。それより自由になることこそ難しいのです」
 資金調達の可能性は解決している。自由の獲得こそ困難な修行である。




3.働かざる者は喰うことなかれ


 21世紀の恐ろしいヴィジョンは既に存在し、新聞はその話題で溢れています。そして同じく自分達も。生活基本金は今世紀最初の希望ある未来像です。それは人がただ傍観するだけの手の届かぬテーマではなく、誰にでも関係することなのです。つまり各自が、責任を持って行えないことはもうやらなくても良くなり本当に望むことを行えるからです。それとも皆、家でゴロゴロするだけになってしまうでしょうか?

 誰も働かなくなってしまうでしょうか?

 長期ストの時と同じように車輪も停止し責任者も遊び呆けてしまうでしょうか?責任?

 それはもう消え去り、舵取る者も無く誰も学ばなくなる?大学も空っぽになる?より優れた能力に対する意欲を生活基本金は削ぎとってしまうのでしょうか?強制されることなしでは、人は能力を生かせないのでしょうか?


 が、それだったらとっくに企業の専門職は不足しているはずです。


 経済はどの様に進展するべきでしょうか?

 「経済が本来何のためにあるか...という理解が欠けていること、それが私を一番憤慨させるんです。経済は人間の共同生活において活動することを可能にし何か役立つ良いことを行えるようにします。でもその考え方がもう消滅しています。つまり経済は、人間自身の生活とは関係のない目的へ向かう単独な循環行程を持ってしまい人間生活を破壊することさえ可能なのです」



 「何と言われても僕が固く信じるに、我々に必要なシステムは労働量や良い業績に対して報酬が支払われるシステムだよ。もしこれが、じょうろですべての植木に水をやるように、すべての人に一定金額を支払ったりベーシックインカムが導入されたりしたら挙句の果てにはすべての業績社会制度が崩壊してしまうだろうね」




 2001年のドイツを例にとってみると、560億時間の労働に報酬が支払われたのに対し、無報酬の労働は960時間にもなるのです。それは家事や親としての仕事、ボランティアなどの仕事です。ベーシックインカムは業績による報酬を妨げるものではありません。むしろ課題となるのは、企業や社会における責任者が金銭的状況にさほど束縛されなくなった人達を報酬の支払いを武器にすることなくどのように指導してゆくのか、ということであり、またおのれ自身をどう導くのか、ということなのです。



 でもやっぱり皆プールで寝そべるのでしょうか?そして街路にはゴミが溜まってしまうのでしょうか?結局、老人だけが公園の整備をするのかも。生活基本金は業績社会のあみならず人間としての自覚や成功への喜びをも埋没させてしまうのでしょうか?すべての人間が報酬を受けるのもなんだか退屈かもしれませんね。昔のヒッピーやシュタイナー学校の生徒だったら本質的に優れたものだと思っています。でも人間は動物でもあるから生活基本金よりも、獲物を捕らえるなわばりの方が良いのかも。まぁ焦らず、新しい市場が何をもたらすか様子を見てみましょう。


 扉の外側で多くの人々が飾られた食卓につけずにいます。生活基本金制度は人のつながりを緻密にできるでしょうか?それとも、階級社会はこのまま存続してしまうのでしょうか?


 高額な報酬や目も眩む学費、そして固定資産などを管理する人もいれば、その他方では生活基本金制度の準備をする人もいます。それは、希望や趣味に時を充て時給200円のためにでも仕事をし本質的なことを妨害しない人達です。 間違った生活資本金制度も起こり得ます。それは、生活必要額に満たない基準を設けた時に起こり得ることです。またすべての社会福祉制度を抹消すれば、人に労働を強いることになってしまいます。中国の様に個性を見ずにただ賃金を払ったり生活基本金制度の中で仕事を断れなかったり、また金銭の往来が様々な出所や特別なモデル、照合計算や書類などによって複雑になってしまうと、およそ今日あるような状況をより悪くしてしまうだけです。


 誤った生活基本金制度は、金額が低い時、社会保障が削除された時、条件を付けた時、に生じる。


 「働かざる者は喰うことなかれ」と使途パウルは言いました。でもそれは教会活動に献身的ではない人を指してのことでした。「もし教会の救済がすぐ近くに来ているとすれば」とパウルは続けて語り「つまり行うべきことを与えて下さるのであれば食べるものだって与えて下さるに決まっている」パウルにはユーモアがありましたが、他の人には解りませんでした。寄宿舎の生徒が籠に入れられて食卓上の天井に吊り下げられ、何も食べさせてもらえません。仕事を十分にしなかったからです。食事没収!精神性が失われる時、どんな決まりであろうとも酷いものです。




 「ベーシックインカムについて議論する際、始めに課題となるのは、古い考え方を踏襲してゆくことです。例えば以下の観念。「賃金労働に従事する者のみ、食する権利を有する」この間違った、働く者のみが社会のために有用なのだという考えをベーシックインカムの議論において取り除かなくてはなりません。何故なら、世の中にはこれとはまったく逆の賃金労働だって存在しているのです」




 「働かぬ者は喰うことなかれ」という言葉が先ほど心に響いたばかりですが、芸術家ヨゼフ・ボイスはその言葉を「考えぬ者は出て行け」...と書き換えました。だって食べる物は勿論、その他の物も十分にあるのですから。


でもその点、仕事に関してはどうでしょうか?

 「こうした自然物、物質、そして加工に関する労働はありがたいことに上手くいっている。しかし経済は人間を労働から解放するという課題を背負っているんだよ!」




 経済は人間を労働から解放するという課題を持つ。こんなこと、新聞には載っていません。いったいどこに開放するのでしょう?

 こんなこと、企業要綱にも載っていません。従業員の解雇は誰にでも辛いことですが現実にそれは起こっています。しかしそれを現実のこととして、もしくは課題として理解すれば少し変わった解釈も可能です。つまり、労働から解放されるということは、同時に労働への自由を獲得する、ということです。労働という名の囲いの外にヴァカンスとホリデーしか思い浮かべられないならそんな考えは、自主性からくるものではありません。


 職場にとって、何が投資されるべきなのでしょうか?

 「新しい時代の職場に投資するすべてのことは同時に合理化へと向かうべきである。そこではつまり労働を節約することが展開していくのです。そこでは「どうやってもっと多くの仕事がくるようにすれば良いか?」などと言うマネージャーはいません」




 「どうやってもっと多くの仕事がくるようにすれば良いか?」。経済の課題は需要を満たすことにあります。お判りの通り、効果的にです。仕事をもたらすことが経済の課題ではないのです。人生の目的や疑問、課題を携えて来る人々がそれでは収入が得られないので他のことをしなければならない状況に対して立ち向かうこと、これが課題です。


 「現代社会における問題点、それは今日、大勢が職場を持っているとは言うが実際、それは金稼ぎの場でしかない...ということなんだよ」




 金稼ぎの場があるということは、つまり人は金を得るための手段を学ぶということなのです。それに魅力を感じないのであれば社会的にこれは問題です。何故ならそれがストレスや病気につながっていくからです。ドイツでは12%の労働者が、その職場が自身にまったく適していると感じています。10人に1人以上の割合です。半分以上の54%の人は仕事に対してさほど満足していませんが良い点を挙げることもできます。そして34%の労働者は自身の仕事にまったく不服です。およそ3人に1人の割合です。



 労働争議って言いますが、そうれは結局賃金闘争のことです。その労働争議は仕事がなくなってしまうことに対して抗議します。...ってことは、仕事=私自身です。しかし仕事の斡旋は正当なものではありません。義務そのものが正当ではないのです。身を売買されることが正当であるはずがないのです。人が自身から望み行う労働を得る権利こそ正当なものです。誰にも左右されず、その正当性のために賃金も正当でなければなりません。


 「仕事のための労働局があっても「賃金管理局」がないのはちょっとおかしいね」



 この男性はつまり、やる仕事はいくらでもあるけど、それでは稼いでゆけないと言うのです。もし所得に対する権利が存在するなら社会にどの様な影響を与えるでしょうか?


 スイスの社会学者メーダー氏の意見は...

 「賃金労働における偏ったこの批判的な状況の中で人は「人生の根本価値」という問いに焦点を当てます。」所得の権利は人々を激励し安心感を与えます。またやる気を与え、満足感をもたらします。したくもない事を、肘をはって無理して行う必要も減るのです。他人の犠牲によって得られる利益に常に執着しなければならない現状から人々は少しずつ開放されていきます。その今日の現状は激しい競争システムによって生じ、それに因り人間の連帯機能もうまくいかなくなっています」



 以上が社会学教授の意見でしたが、ちょうど仕事を終えた人が初めて生活基本金について聞いたら何と言うでしょうか?

 青年:「...ってことは皆同じ給料を貰うってこと?」
インタビュアー:「そうではなくて給料はまちまちだけど生活基本金が貰えるんです」
青年:「でも働けばでしょ?」
インタビュアー:「いいえ、無条件で」
青年:「無条件?」
インタビュアー:「全員に支給されるんです」
青年:「そんなことしたら必ず問題が起こるよ。基本給が保障されたら仕事に就かなくたってよくなってしまう」
インタビュアー:「あなただったらどうしますか?」
青年:「喜んで仕事に行くよ。家にいたって何もならないし、自分の仕事が好きだからね。でも必ずや仕事に行かなくなる人が出てくるだろうね」



 生活基本金が貰える場合、それでもあなたは仕事に行きますか?

 この質問に約60%の人が即座に「はい、今まで通り」と答え、30%の人が仕事には行くが「少し時間を減らす」か「内容を変える」と答え、10%の人がとても正直にまずは家でゆっくりしてから先のことを考える、旅行に行ったり、他人の世話をしたり、何か勉強を始めたり...と答えました。では、生活基本金が貰える場合、他の人は仕事を続けると思いますか?という質問に対しては80%もの人が「いや、大抵の人が仕事へと向かう力を失ってしまうだろう」と答えています。仕事に必要なこの力っていったい何なのでしょうか?自身から沸き起こる力ではありません。何が仕事へ向かわせる力なのでしょうか?

 足踏み動力

 児童労働

 すべては当然のことでした。でも今なお存在します。




 何かの製品がどこかアジアの国で作られ、そこでは人がしたくないような不快な作業がなされ、そのために更にどこからか安い労働力が導入され、そのための契約書も保険も、何の保障もないのです。




 病気になればお金も貰えません。でもこうした「汚い仕事」と呼ばれる仕事は、それ自体が汚いというわけではなくその誤った価値観や低賃金、労働条件等がその仕事を汚くしているのです。しかも大抵、その仕事は他の人が汚したものを片付ける仕事です。




 誰がいったいその仕事を汚しているのでしょうか?

 生活基本金があれば誰もが「イヤだ」と言えるようになります。そしたら誰が「汚い仕事」をするのでしょうか?そのための3つの解決策は...

 1. その仕事に対する賃金を上げ労働条件を向上させる。

 2. 自動化や合理化を推進する。

 3. 各自が自身で処理する。


 「例えば、スーパーのレジで働いている人を思うと多分そんなに楽しいわけではないと思うわ。レジの人達は生活基本金が貰えても仕事に行くのかしら?」




 それでは実際に尋ねてみましょう。

 「えぇ、私は仕事を続けるわね。だって家にいて何にもしないなんて考えられないわ。例え1000ユーロの基本金を貰えたとしてもね...」
まぁ、とりあえず1000ユーロってことですが、もっと高くするべきでしょうね。それとも少なく?
「どのみち1000ユーロじゃ全然足りないわよ...」


 だからこそ「基本金」なのです。それは文化的水準にかなう生活のために最低限必要な額を補います。だから今と同じようにお金をもっと稼ぎたいと大抵の人が思うのは当然です。レジに戻りましょう。


 「夢の職場」ってわけではないでしょう?
 「勿論「こんなレジの仕事なんて」って考える人もいるけど、この仕事では多くの人間と接触できるし自分の態度が雰囲気にも影響を及ぼすんです。また私は解放的な性格ですから...だから仕事についても悩んでないし、ここがとっても気に入っているわ」


 生活基本金があったら何の仕事をしますか?より良い条件で同じ仕事を...だとしたら、ベーシックインカムが導入されても極端な変化は起こり得ません。

 「仕事無しじゃ生きていけないわ。そんなの退屈ったらありやしない」

 でも変化は起こるでしょう。



 「旅行に行ったり色々視察したり、今できないことが可能になるわ。仕事をするためには教養を積まなくてはならないしね。そして仕事に付きまとうストレス。皆仕事を見つけるにも苦労しているしね。ふさわしい職場は直ぐふさがってしまう。でも生活基本金があれば職場探しもそんなにストレスにならないと思う」




 「現在私達は、生徒達が大人になって社会にでる時のために、自身に合う職場を必死になって探せるような状況に導かなければなりませんが、そんな職場が十分に存在しないことはもう皆知っていますよ。そんな偽りの中に私達は生きているんです」




 「ベーシックインカムというテーマは若者にとって本当に大切だよ。今日どれだけの若者が将来に不安を抱いているか、様々な学校で観察することができるしね。よく考えもせずに単に職場の準備を学校で行って、納得がいかなくても仕事について安心することで、その先問題が生じるんだよ。人が本当にやりたいことを最善をもって行えるようにベーシックインカムは現在の問題を改善してゆけると思う」




 「でもやっぱり問題は起こるだろうね。意識の問題が...。何事にもふさわしい時と場所が必要だよね」




 ではベーシックインカムが及ぼす仕事への意味は?

 「恐らく仕事は複数の人によって分担されるだろうね。そしたら満足が得られるのさ」




 では「意識の問題」は?

 「僕ら人間は大抵、大きな錯覚の世界に生きています。僕らが生きていられるのは、自然があるからであり、また次世代やパートナーがいるからです。自分以外の物や人が自分を支えているという依存関係や人間愛のことをはっきりと理解しない限り、自分はまだ他の人に対して負債があるわけです」




 人間愛についてでしたが、人間の平等や民主主義については?

 「私にとってベーシックインカムは民主主義が機能している証拠のようなものだわ。生活基本金が保障されていればビクビクすることもないわけだし、すべての人のための民主主義社会に多様性をもたらすことが可能になるわ。貧富の差に関係なくね」




 では芸術分野では?

 「実際に作業していない時でも目に見える作品が存在しない時でも僕は働いているわけでしょ。芸術家にとっては色々複雑で想像力を得て作品を作るために必要な人生全体の時間に対して、お金をもらえるのでは無いわけで、注文を受けて実際に工房で作品を製作した分のみお金が支払われるんだよ。インスピレーションを得てそれを保持するための時間wどう経済的に支えるか?人生そのものが芸術なのだから」




 さて若いお母さんにとっては?

 「それはもう最高だわ。そしたら何も後悔する心配なく自分がやりたいように育児に専念できるし、やっぱり働きたくなったら、労働斡旋所の紹介するがままにではなくて自分の希望に沿って仕事をしていけるわね。そういうことを考えたら、とっても良いことだと思うわ」

 そして子供が成人になったら独立するのも容易になります。さてベーシックインカムで基本金が保障された中で人は正しく成人になれるのでしょうか?




 ベーシックインカムと人々の意識成熟の関連は?

 「恐らく僕は社会に対する反抗にそんなに時間を要さずにすんだだろう。経済的な心配がさほどなければ世の中に容易に溶け込めただろうし人の中にも用意に溶け込めただろうね。そして本当に大切なことを諦めることもなかっただろうね」




 「至るところに存在する必要のない癒着関係を解いていくことが可能になるでしょうね」




 「私達人間はもっと社会や世界で起こることに対して責任を持たなければならない。こんなに収縮した世界で人間は孤立しては生きてゆけない。ともかく大切なのは、まずはすべての人が頭の中で収入と労働を切り離して考えられるようになることです。つまり仕事をするために収入があるのであり収入を得るために仕事をするのではないということです。ベーシックインカムは私にとってアルキメデスの原理のようなものだよ。それによってまた様々な疑問や課題が沸き起こってくるだろう。でもこういうことは色々なところでいっぺんに始めても大きな社会運動にはつながっていかないだろう。それよりも大切なのはひとりひとりの個人の力。この個人の力こそが重要なのさ」




4.社会システムと雇用の変化

 ヨーロッパのとある中央駅での戴冠式

 人が飛べるということは永い間、空想の産物でしかありませんでした。失敗ばかり重なって不可能だと思われていました。今日では技術的に当然のこととなりました。そして選挙権も。全民衆が決定権を持つ社会が成り立つなど信じられていませんでした。限られた視野しかない教養のない町民が社会のことも知らずに決定権を持つことが国家のために有益なのか?...と。しかも男性ばかりではなく女性までも。女性、それはとっても感情的だからすべてがゴチャゴチャにされてしまうのを守らなければならない...と。 また家事はいったい誰がやるのか?一連のこうした主張が再びベーシックインカム反対者の中に見出せるのです。スイスでは婦人の選挙権が1971年から施行されました。その3年前には既に月〜人が飛んでいます。それまであったことを覆すようなことが実際に現実となる前には、それが可能となるなどとは誰も信じていませんでした。今までなかったことも上手くいくはずです。


 その昔、市民は国家に統率されていました。それが今日ではひっくり返り、市民一人一人が主権者として、自由選挙や市民投票を通して国家に課題を委託します。同様に仕事も、労働市場がそれを制するのでもなく、また人間が経済のために存在するのでもなく、すべてはひっくり返り、一人一人が経済的な主権を握り、自分自身の課題だと判断することを権利として守られるべき自由所得の原理の中で行うようになったのです。


 トマス・モアはイギリスのヘンリー8世下の大法官でしたが、側近たちの間違った考えに抵抗したために処刑(断頭)されました。その行為によって彼は1935年に聖人と定められたのです。更に2000年には法王ヨハネ・パウル2世が彼を政治家の守護聖人に定めました。トマス・モアはその「ユートピア」という著作の中でより恵まれた環境にある遠い島での旅行記を著しました。それを他の著作家もまねました。この著作以来、私達はユートピアという言葉を使っているのです。「無い」「場所」という意味です。

 生活基本金の構想は既にルネッサンス時代の社会的ユートピアに見出せるのです。ユートピアという場所を通して人間の発展段階が判ります。過去には考えでしかなかったことに、後世に人は真剣に取り組みました。例えば啓蒙思想。つまり、自らが見て考えて真実と思うことを主張するのが啓蒙思想です。更に自らの知識を他にも分け与え新しい解明が常に生じていきます。


 ここで重要なのはどういうことでしょうか?

 「大切なのは思考の自立、自身で分析するということです。感情が揺れ動く時期に両親や教師、牧師や博士を通して受け継がれる思考のパターンは突然間違いだと狭義なものだと認識されすぐさま新しい思考パターンを見つけて自身のために確立させていかねばならないのです。それを通して、自身で考えたことを信じるということを学んでゆきます」




 マッターホルンに登りたければ、早起きすることを考えます。下山する時に暗くなったり寒くなったりしないようにお昼には山の上に着いていたいからです。スイス人は皆知っていることです。


 でも原油消費量のことは誰もよく考えずにそれがもう頂点に達してしまいそうです。原油供給量のピークはもう間近で、それからあとはただ急降下しかありません。賃金労働の完全雇用も同様に一時的なもので既に頂点は越えています。




 未来学者のジェレミー・リフキンは将来どのようなスケールで完全雇用がなくなっていくのか1995年に予言しています。

 2050年に、今あるような産業形態を維持していくためには恐らく5%の人間のみが必要とされるだろう。農場、工場、オフィスには人が殆ど必要なくなる。




 リフキンの予測は議論を呼んでいますが、単なる空想とは違います。1982年にアメリカでは7500万トンの鋼鉄を生産するために30万人の人が働いていました。20年後には1億トンもの鋼鉄が生産されたのに、そのために働いたのはたったの4分の1の人だけです。無論新しい職場も生まれましたが、それはいくらかのコンサルタントか特別な技術職のみです。




 そうしたことは産業界だけではなくサービス業でも同じです。オンライン銀行はその顕著な例ですが、これからまだ発展してゆきます。同じ数の顧客の預金業務に今までの銀行の10分の1の従業員しか必要ではありません。こうした変化は先進国に限られたことではなく基本的に世界中の至るところで生産量に対する労働者の数が減る傾向にあります。


 21世紀における世界資源は人間の想像力そのものである。 -アドリエンヌ・ゲーラー-



 「将来の職場は、今の芸術家やジャーナリストを模範としてどんどん変わっていくでしょうね。企業体にはまらずに自由にお金や仕事の量、いつ誰が仕事をするのか、その期限を決め自宅で仕事をすることも多くなるでしょう」





 「新しい時代は、人間が不安、欲望、憎悪を克服して理想的なヴィジョンに近づいていくことを要求します」




 100年前の農業では1人の労働者が3人分の作物を生産していましたが今日では120人分の作物を生産できます。そのわけは御覧のとおり...そしてそれはどこでも同じことです。現代の労働者は100年前に比べて100倍も動かなくてはなりません。技術が多くの労働者を担うこと。ひと昔前はこれが目標でした。




 では今日の目標は?多くの人の後退につながるような今の状態が目標と言えるのでしょうか?

 生きるために不安を持つことが目標ですか?もう新しいアイデアなど必要ないと言うのでしょうか?

 技術革新がどんどん先に進んでいますが社会福祉革新となるとまったく事情が異なります。小舟は一度沈まなければならないのでしょうか?

 でも頭を冷静に保てば体は再び浮いてきますよ。福祉の在り方を変えるのには、機械の動力とは違う別の力が必要です。発展の波の中に社会福祉はまだ埋もれてしまっています。


 福祉国家はどうなっているのでしょう?

 ゲーテ「ファウスト」

 メフィストフェレス:生命あるものを認識しそれを叙述しようと欲する者はその中に存在する精神をまず除去してしまうのさ。すると手もとに残るのはバラバラになった部品だけで、それを結合する精神 - 或いは生活基本金 - がそこには残念ながら欠けているのさ。

 - いったい何のことを語っているのか私にはよく解らない。頭の中で風車が回転しているかのようだ。私には理解し難い。



 所得を得るために仕事に行く...と誰かが考えるのであれば、そこからもう誤解が始まるのです。所得というものは誰でもが必要だから皆が得るべきものです。誰もが他の人のお陰で生きているのです。もし所得が労働と結合しているとすれば機械が給料を得なければなりません。しかし所得を必要とする人が今も引き続き仕事を引き受けています。ベーシックインカムによって賃金労働が無くなるのではなく、その中の絶対権力を取り消すのです。そして真実性に対して空間を与えます。他にも色々可能性があります。

 約50年前のスイスで洗濯機はおよそ3500フランもしました。これは大金です。その後発達した洗濯機は今日、3195フランで購入できます。つまり価格はほぼ同じです。でも50年前の1フランには3倍以上の価値がありました。ということは50年前に比べて洗濯機の価格は3分の1になったということです。床屋は50年前には3フラン50ラッペンだったのが、今日では40フランもします。このように、技術の進歩によって昔のように人の手を借りなくても済むところでは価格は下がりました。でもそうではないところ、例えば床屋では価格は上がりました。


 高いのは人件費です。

 何故なら所得が必要だからです。しかも税金も加算されます。購買力を考えた場合、床屋が昔よりも良い賃金を得ているわけではないのです。どこでどの様に合理化が進んだのか、また合理化にはどういう意味があるのか、それを知るために価格の比較をしてみると、もし洗濯機の値段が床屋の値段のように上がったとしたならば、今日その値段は40.000フランにもなるのです。



 「もし私が洗濯機にどれだけの意味があるのかということを理解できなければ、つまり洗濯するっていう事以外の意味を理解できなければ、無条件の生活基本金が文化衝動であるかどうか、その質問に対する解答は得られないでしょうね」




 もう今から212年も前にトマス・ペインは著書「農業の合理性」の中でベーシックインカムを推進しました。そこで彼が述べたのは、すべての人間は平等であり、大地はそれを養う。だから誕生の時より人間を養う大地の一部に対する権利が与えられるべきである。が、その大地が幾人かの人間に割り当てられてしまっている場合、それを財産というがそこに均衡がもたらされなければならない。土地を所有しないために自給できないこうした人々に均衡をもたらすのが生活基本金であるべきである。



 それから今日に至り、様相は変わってしまいました。今日では土地を所有していても自身を養うことはできません。自分のためにだけトラクターを製造したり大地に肥料をまくのではなく、自身の仕事の成果がほかの人々のためになるのであったら世の中はもっとうまくいくでしょう。


 自給というのは、自分で製造できるものによって生活するということです。でも自給のように見えても本当は違うこともあるのです。

 私達は助け合いの中で生きています。私の労働はほかの人のためにあり、私が手に入れるものは、ほかの人の労働によって存在します。そしてその往来が、お金によって機能しています。労働によって商品となったものが、お金で買われます。お店ではチーズと現金が店頭で交叉するわけです。給料には自給的な性格も含まれています。何故なら自身の行為に対してお金が払われるのだから結局、自分のためなのです。



 イスラムのスフィ伝説にでてくる天国と地獄の違い

 地獄ではおいしいご馳走が準備できています。そこに長いスプーンがあります。それぞれがひとつずつ手に取ります。

 (人々はスプーンが長すぎる(数メートル)ために食べることができない。結局誰も食べることができない。)



 天国でもまったく同じ状況です。おいしいご馳走とスプーンが準備できています。それぞれがひとつずつ手に取ります。

 (人々は互いにその長いスプーンで与えあうために食べることができている。)




 助け合いの社会では、自身の仕事の成果が他の人を満足させる。自分のもとに今あることは、他の人のイニシアチブによって存在する。イニシアチブを買うことはできないが可能にすることはできるのである。


 「こうして考え方を変えれば解ることなんだけど自分のために働いてくれる人々に対して生き延びるために這いつくばってでも働け!などと酷な言葉をとばすのは恥だということだよ」




 「新しい時代の特徴は、社会における絶対的な個の存在だよ。すべての人は自身の目標や概念を持ちそれを可能にする方法を探している。今の社会ではそこでお金が重要な意味を持っている。すなわち、お金が自由への手段になってしまっている。その考え方を今後変えていかなくてはならないんだよ。でも人々がそれをできずにお金の奴隷になり下がり自由への喚起を結局のところ再び失うことになれば、それは悲劇でもあり、現代社会における皮肉とも言えるよ」



 お金の奴隷になるってどういうことでしょう?

 それはお金で計れることだけはすべてやるということです。つまりお金そのものが価値であるということです。そしてお金を利用してもっと多くのお金を持たなければと考えます。またお金を行使して他の者やその生活に権力を振るいます。そしてこのお金の奴隷たちはその支配権によって彼らがお金を与える人達をも奴隷としてしまうのです。ベーシックインカムでは民主主義によって流れるお金の一部が市民にくまなく分け与えられ、自由への手段となるのです。そうすればお金が雇われものとなり、人間が支配者となります。


 グローバルな課題を持つ今の世のためにこれは好条件となるでしょうか?

 「いや、それは当たり前だよ。まず社会に必要なのは、自由の概念をつくりあげること。というのも世の中は馬鹿げたことばかり...「世の中に金があり過ぎるのが問題なんだ」...と、投資コンサルタントが嘆く一方で至るところで商品が過剰生産されている。そして増え続ける膨大な失業者、とにかく課題が山積みだ。人間がグローバルの泥沼に埋もれたくなければ多くのことを早急に行わなければ...」




 世界全体の農業は120億人分の生産が可能です。

 この地上には66億の人が生きています。なのに1時間当たり1000人が食料不足で死亡しています。


 「水は食料品にあたるから他の食料品のように市場価値を定めるべきだ」




5.財源を消費税に求めるプラン

 「今日食料不足で子供が死んだらそれは殺されたのと同然です」

 - ジャン・ツィーグラー -




 お金は必要なところに流れて行かず、社会の現実とは拒絶されています。利子を増やす名目のもと保管されていますが、ドアの外の社会では不足しています。多量のお金がひとところに寄り集まっています。そこから出てきたところで、人々のためには何もならず、例えば配当金として激烈なシステムの中で破裂するだけです。


 これが未来ではないでしょう?




 「所得と労働を分けなければならないということは次第に明らかになってきています。そしてベーシックインカムは失業問題に対する本当の解決策だと思います。やるべきことはたくさんあるけれども、お金が無いわけです。だからベーシックインカムで必要なところにお金が流れ、人々のインパルスが現実のものになればと思います」




 労働と所得を分けること。ベーシックインカムにとって最高のことです。


 でもどうやってそれを達成してゆけるでしょうか?

 この円は国民経済における生産価値を表しています。(図 59:09) 生産が多ければ円も大きくなります。国民経済における生産価値というのは、ひとつの国で1年間の間に何がサービス業や生産業で生産され更に加工されたり販売されたりしたかを表します。この生産価値は国家と個人という領域に分けられます。生産された半分は国家からの税金や出資で賄われます。それによって教育機関や警察、社会福祉、その他のサービス業など個人が支払うものではなく公共費用であるべきもの、民主主義的に委託された仕事などへの費用が賄われています。


 2005年の国家出費率は、スイスでは36%、スゥエーデンでは56%、オーストリアではちょうど半分の50%、そしてドイツでは47%となっています。


 さてベーシックインカムの導入でこれがどう変わるでしょうか?

 実際のところ国家が支払う基本金で変わるのは支払いの性格が少し変わるということだけなのです。何故なら基本金のためのお金は既に存在する税制度で国家が所持しているからです。今日だって国家は税金からこの「基本金」を所得として公務員や役人、配当金の受取人などに支払っているではありませんか。こうした既存の基本金はベーシックインカムの導入に際してその簿記の方法が変わるだけなのです。




 個人領域では基本金のためのお金はまだ国家に属していません。まずそれを税金として国に収めることによって基本金の支払いが可能になります。それにより国家の負担率が増します。




 それじゃ国が力を増すってこと?

 いいえ、そうではなく国による統率や管理はかえって減るのです。ここでは国家は基本金のための単なる保証人に過ぎません。

 でも税金が高くなるんじゃないの?そうです。でもどの税金でしょうか?


 その場合いつも頭に浮かぶのが高額所得者からお金を頂くということです。高い所得税によって基本金資金を調達するというこの考えは既にミルトン・フリードマンにもありました。必要な家庭には所得税が支払われるというもので、それを「ネガティブな所得税」と彼は名付けました。彼の提案したモデルは1990年代までベーシックインカムの討議で他の意見を制していました。それは1960年代に展開されアメリカでは導入直前のところまでいきました。フリードマンはスリムな自由主義の福祉国家をめざしていたのです。



 50年後の今日、所得税による国家予算は、減りつつある賃金収入によって支えられているのです。それが今日の福祉国家です。失業者の増加はつまり所得税の減少をもたらします。かといって所得税を上げれば、賃金労働に負担をかけます。猫が自分の尻尾をかじっているのと同じ状態です。所得税における不条理な点は自身の業績が税にかけられるため、自身の基盤を消耗させてしまうことです。


 では今日にふさわしい税収入とは何でしょうか?

 今日税金がどの様になっているのかこの企業の例をよく観察してみましょう。

 スイス、バーゼルにあるカフェ。

 一日当たり1000人以上の来客があります。40人の男女従業員。年間350万フランの売り上げ高。




 では税金はどのようになっているのでしょうか?

 「企業にとって税金とはいつも経費ってことなんです。そして経費はすべて売り上げによって賄わなければなりません。さもないと企業は存続できなくなります。さて基本的には3つの税金の形態があります。ひとつは付加価値税(消費税)でこれは客が直接支払います。その他に社会保険費と所得税があります」


 付加価値税はレシートに明記されていますから誰にでも判りますが、企業にとっては経費にあてはまらないので明細書にも記載されません。では社会保険費の場合は?


 「その場合には従業員と企業が半額ずつ費用を払っているかのようにしなければなりません。従業員の給料明細書にはその様に記入します。それは決まりであり、そうしなければならないのです。そして会計簿記にもその様に記載されます。が、実際に費用を支払っているのは雇用主であり、そのお金は客が払っているわけです。所得税のためにお金を従業員は税務署に納税する前に実際に受け取っているのです。お解りにように所得税も既に商品価格に含まれているのです」


 ここでラテマキアートを飲んだら、価格の内訳はどうなっているのでしょう?

 牛乳とエスプレッソが混ざったこの飲み物はここでは5フラン20ラッペンです。価格の4分の1は経済基盤、つまり建物、光熱費、運輸、食器などに充てられます。更に4分の1は商品の原材料である牛乳、コーヒー、砂糖のための費用です。その他の大部分は人件費、つまりサービス料です。が、その中には掃除料金や管理者の給料も含まれます。更にその上に付加価値税が加わります。スイスではたったの7.6%です。これは商品が購入された時に始めて課される税金で、生産物に含まれるすべての努力がお金に変わった時に有効となります。もしウェイターがラテマキアートを落としてしまったら生産価値はこれで消失です。アルプスの牧場に始まるすべての労働が無駄になるわけです。こぼれたラテマキアートはもうラテマキアートではないのです。ですから付加価値税も無くなります。



 付加価値税が生産の最後にくることは明らかです。しかし商品の中には、その製造過程で生じた目に見えない税金が含まれています。給料の中には所得税、保険料、福祉税などが含まれています。原料の中にも税金が含まれています。その生産過程でも所得税が払われているためです。それは原料費の中に含まれているわけです。企業維持の基本経費についても同じことが言えます。それを消費者が支払っているのです。その支払いによってお金は機能し、それによって税金も支払われるのです。




 これまでのことを要約してみるとどうなるのでしょうか?

 もし様々な税金がひとつにまとまった経費として付加価値税のような誰にでもわかるように生産物の最後で課税されるのであれば、りんごが熟れてから初めて税金をかければ良いのであって、これまでに何段階にも分けて課税しなくてもよくなり、すべての消費者は値段を見てどれだけのお金が国に流れるのか、税金となるのか、直ぐに解るのです。




 民主主義はレジで行われています。レジでは誰もが平等です。もし税金が消費税だけになれば、所得税隠しもなくなります。労働には税金が課されなくなるのですから...。その代わり税隠しに誘惑される人が現れるでしょう。床屋で40フランの代わりに20フランで済むとしたら?大きな間違いです。勘定書を記載さえしなければ高い税金を着服することも可能でしょう。でもこの付加価値税しかないとすれば脱税の捜査も簡単で効果が上がるでしょう。ただ税理士の皆様方にはお気の毒です。企業や財政事務所の複雑な経理の仕事も減ります。


 「敷居の無くなった社会にはチャンスがあります。それは税金がしっかりと納められるようになるということです。しかしそのためには、人々が逃れられないような税源が必要です」




 つまり付加価値税をしっかりと定着させる必要があります。この税は消費者が現金を支払う時に有効となります。ですから消費税と名付けることができます。消費税はラテマキアートを飲む人が払うのであり運んできた人が払うのではありません。


 それに対し所得税のことを考えると所得はまるで自分の家へ持ち帰るためにある労働による収穫物であるかのようです。所得税は自給による税金です。ですから助け合いの社会では問題となります。高齢化や失業問題も消費税があれば国家の財政に問題は起こりません。何故なら常に消費はなされ十分に生産もされるからです。




 これを考えた時、やはり所得税の問題が浮かび上がります。それは仕事をする機械が税金を免除されていることです。


 ここに同価格の2つの製品があるとします。ひとつは殆ど手作りで、もうひとつは機械製造です。手作りの方には税金が多く含まれていますが機械製造の方は違います。つまり機械に所得は無いので税金も差ほどかかっていないのです。脱税労働のようなものです。




 左のグラフは床屋の場合、そして右は洗濯機の場合です。

 現在、人の仕事に税が課せられますから一方では税金が多く含まれ、他方ではそれが少なくなっています。ここで両方の実質的な価値だけを見てみましょう。それまでの税金のことは抜かして考えます。そこに同率の消費税をかけ、先ほどのグラフの赤で示されていた税金の量にまであげてゆきます。するとひとつは安くなり他方は高くなります。なぜなら機械の仕事に税的な助成がもう無いからです。人間による仕事と機械による仕事が税の上で平等になりました。というのも税金が、商品の生産価値にのみかかるからです。そうすれば機械も、その機能ゆえのみならず税収入にとっても有益になります。



 更に床屋の価格を今日と同じところまで引き上げれば全体の結果として国家の税収入は益々増えるのです。




 今日の様に商品に税金の殆どが含まれている場合、その税金は商品と共に外国へ輸出されます。もしその商品がスイス製だとしたらスイスにおける教育や公共事業、社会福祉の費用を商品を買った外国の人が払うことになるのです。これは正しくありません。


 では逆の場合は?

 スイスで外国からの製品を格安な価格で買えますが、そんなに安く買えるのは色々な理由の中でも特に原産国の人々に対する保障が行き届いていないのでそれにかかる費用が少ないからです。

 消費税はすべての輸入品、売られる行為に運び込まれるすべての物品にかかります。そして国産品にも同じ税金がかかります。国内で売られるすべての物品にかかるのです。それが国内で生活する人々に還元されます。が、消費税は輸出できませんから商品が輸出されても税金はついて行きません。



 個々の国が自らの良き判断で財政を執り行いそれを自ら賄うべきです。


 消費税はグローバルな社会における適切な税金です。公正な取引のための公正な税金です。このような、商品を売る時に課される税金はここドレスデン、エルベ川沿いのブリュールテラスで始まりました。ブリュールのハインリヒ伯爵が考え付いた税制度です。200年以上経ってドイツでは似たような税制度が施行されましたが、付加価値税というまったく違う計算方法によるものです。それは作業の分担に余裕を与え競争経済にも無影響です。



 ドイツにおける19%の高めの税金は、統一的な国家収入として定着しています。スゥエーデンでは25%です。この税金はヨーロッパ共同体加盟の条件のひとつです。新時代の税金です。助け合いの社会にふさわしい税金です。


 ドイツでの付加価値税導入を推進した一人、それがこのベネティクトゥスハードブル博士ですが、彼もこれを支出税、或いは消費税と名付け、これこそが唯一の税金であるべきだと述べています。


 所得税が常にブレーキになってしまっているのを私は見てきた。でも消費税によってまずすべての労働過程がより発展していくことになるだろう。支出税が導入されれば人々は人生における方向性をはっきりと定めることができるようになる。- Dr. Benediktus Hardorp -



 「もし消費税しかなければ、ことは簡単だ。税金申告などもしなくてすむ。だって何にも税金がかからないのだから。でも消費税しかなくなったら免税制度はどうなってしまうのだろう?なんたって免税制度は社会福祉の構成要素だからね」


 消費税においては貧富の差に拘わらず同率の額を支払うわけです。福祉の観点からこれをどうみれば良いのでしょうか?


 「そうだね、そしたらこうすれば良いんだよ。つまり生活基盤を支えるために誰もが消費税の払い戻しを受けるこの払い戻しこそが生活基本金なのです。


こうしてまた生活基本金のテーマに私達は戻ってきました。でも変わったのは「どう資金を調達するか?」という問いが「消費税をどう福祉的にするか?」に進歩したことです。生活基本金とはすなわち生活基盤のための消費税の返済、払い戻される免税金なのである。このように消費税を通してベーシックインカムは免税金の払い戻しとして社会福祉にも論理にかなった道を歩むのです。だから無条件であるべきなのは誰にでも理解できるはずです。


 では実際にはどういうことになるのか、計算してみましょう。

 とりあえず生活基本金を1000とします。1000ユーロです。それを免税額の払い戻しとして誰もが受け取ります。誰がいくら収入を得ているのかはまったく関係ありません。他に収入がなければその1000ユーロが総収入になります。他に500ユーロの収入があれば総収入は1500ユーロ。他に1000ユーロの収入があれば総収入は2000ユーロとなっていきます。ここでは誰もが生活基本金という形で10000ユーロの税金を受け取るわけです。




 ではそこからどれだけ税金を払うことになるのでしょうか?

 所得税が無くなり、商品価値にかけられる消費税だけになった場合、税率はおよそ100%となります。つまり価格の半分が税金となるということです。10ユーロで何かを買えばその中に5ユーロの税金が含まれています。1000ユーロ買い物したら500ユーロの税金を払ったということです。でも1000ユーロの税金の払い戻しはもう受けています。ですから実際にはマイナス500ユーロの税金を払いました。言い方を変えれば実際には500ユーロの税金を受け取っているということです。1500ユーロの買い物をしたならば同じく半分、750ユーロが税金です。1000ユーロはもう受け取っています。実際にはマイナス250ユーロの税金を払いました。言い方を変えれば生活基本金によって250ユーロの税金を受け取ったということです。2000ユーロ買い物したら、1000ユーロの税金を払ったことになります。この時初めて実際には税金の支払いも払い戻しも無くなるわけです。

 生活基本金の倍額以上の支払いで初めて実際の消費税が加算されます。3000ユーロの支出では、実際に500ユーロの税金を払ったという風になっていきます。生活基本金の倍額を支払う時、税金はプラスマイナスゼロなのです。そしてここから累進課税が始まるわけです。3000ユーロの支払いではそのうちの17%が実際の税金です。5000ユーロの支払いではそのうちの30%が税金です。それより高額な支払いに含まれる税金は最高50%近くとなります。そして逆の方向にも累進課税は効果を及ぼします。消費税における社会福祉的な累進課税率はベーシックインカムによって容易になり、なんと言っても効果があるのです。



 「民主社会党は、裕福でない人達が個々の状況に合わせた税金ではなくて、一律の消費税をその給料の中から多く支払わなければならないのは後退的な税制だと言っていつも反対しておられます。でも所得税が個人の状況に合わせて機能しているかというと、そうではありません。何故なら高額所得者には、その収入の一部をどこかに隠したり税金の控除を申請したり、色々な可能性があるからです」




 できる人は所得税が高くならないように収入を縮小します。それができないと所得税がのしかかります。しまいには、生活基本金が福祉の均衡を保つこともできないうちに、先ほどにもでてきたように、しわ寄せが商品価格に現れてきます。


 所得税ははっきり姿を現さないばかりか、しっかり見られることを阻むのです。税金がはっきりとひとまとまりで商品に現れるとこうなります。




 それまでの過程で課された所得税が商品に現れるとこうですが、ここでは価格の半分近くが従業員にかかる経費になります。右の場合にはおよそ4分の1で済みます。

 左の場合には激しい価格競争の中で仕事をしなければならず、それが価格に反映されています。必要のない者はすぐにとばされ、従業員は限界ぎりぎり、新しいことを試みることもできません。右の場合には余裕があります。ストレス無く考えるゆとりがあり従業員を増やすこともできます。消費税はその様に仕事に影響を及ぼします。



 生活基本金も同じような感じです。生活基本金の一部は税金によって支払われます。その他の部分を税金は膨らまし生活基本金として個人経済の収入の中へ成長してゆきます。運送や建物管理に関わっている人達にとっても同じです。すべての税金は、客の前に姿を現す製品にのみ課されるのです。




 ですからラテマキアートがテーブルに出された時、価格の内訳はこうなるのです。

 下の3分の1がラテマキアートの原材料費、真ん中の3分の1が生活基本金のためのお金、上の3分の1がその他必要な国家予算のためのお金です。そしてこの価格すべてが所得です。下の3分の1は製造過程において直接従事した人達の所得、上の3分の1は、それ以外の周囲の課題や公共の課題を果たすために働く人達の所得、真ん中の3分の1は皆のための生活基本金です。



 このカフェ店が支払わなければならない従業員の給料は、今日価格の約半分であるのが将来約6分の1になります。でも従業員の給料は変わらないのです。税金を削り基本金を増やすのです。(商品の値段は変わりません。)




6.まとめ

 生活基本金は既にある所得の中に成長します。総収入額は変わりません。これが基本です。基本金は実際の生活の中で交渉する際の基盤となります。

 例えば労働で得る収入が少ない場合には基本金があるんだから家にいて子供の世話をした方がマシだ...その子供にも基本金があるんだし...と言えるようになります。




 それともやっぱりハンモックに寝っころがるか?職場に行かず家に留まるか?

 考え得る様々な状況で生活基本金によってその行動を可能にし、独自の生活を立ててゆける様になります。単独、合同に拘わらず。生活基本金によって浮かんだアイデアにもチャンスがもたらされます。所得はもうあり、それを職場に持ち込むだけです。何か新しいことを始めることもできます。一緒にやろうかどうか他の人に尋ねてみることも可能です。その人にだって生活基本金があるのですから。




 今までの仕事を続けるにしても新しいことが起こります。職場では皆同じ目の高さで話せるようになるからです。仕事がどうあるべきか、自分の意見に重きを置くこともできるようになります。本当の意味での共同作業です。雇用主がもう少し多く給料を払わなければならないようになるかもしれません。企業内で幾つかのことに変化が起きていきます。給料がいくら必要なのかも話し合っていけるのです。そしてこの話し合いは様々な側面を持ちます。ある家庭で夫婦の内一人だけ所得を得ていてもう一人は無職、子供のためには養育費援助がある場合、一人が得ている所得から、無職の人も子供も所得を得ていますが、生活基本金により、こうした会社や家族との所得面における今までの結びつきが解け、個々の人間の立場にたった民主主義的な新しい全体の結びつきが築かれます。ベーシックインカムは解放を意味します。家族内でも同じ目の高さで話せるようになり労働市場にもチャンスが与えられます。


 ヴィリーとハンスは仕事仲間です。同じ会社で、同じ仕事、同額の所得を得ています。ここはスイスです。10.000フランあればかなりの生活ができます。しかし、それで何人養われるのかにもよります。ハンスには奥さんと2人の子供がいます。

 例として、スイスで生活基本金が2500フランであるとし、子供にはその半額支給されるとします。こうしてハンスの家族の生活基本金が集まります。奥さんの分。子供達の分。合わせて7500フランです。以前ハンスは家族を養うための額をひとりで稼がなくてはなりませんでしたが、今は2500フランのためだけに仕事に行けば良いのです。でも家族に何も変化は起こりません。

 ヴィリーは独身です。まぁ、愛犬がいるんですけど。でも犬には基本金は支給されません。ヴィリーが仕事を続けて7500フラン稼ぐとしたら彼の生活は以前と変わりません。でも労働市場ではハンスのほうが優位です。何故ならハンスには家族があり、生活基本金もあります。ですからヴィリーよりもずっと安い給料額が交渉の対象となるからです。だからと言って家計に影響が及ぶわけではありません。


 ではこうした、所得の金額の問題にどう対処すれば良いでしょうか?同じ仕事に対して様々な給料が支払われるということではありません。そういう風にはならないのです。また給料の額を、ヴィリーに合わせるのでもハンスに合わせるのでもないのです。


 ここで新しい水準が必要となります。それにはつまり真ん中、5000フランです。同じ会社、同じ仕事、同額の所得。ヴィリーにもハンスにも5000フラン支給されます。




 お金で計れる生産価値の他に、お金では計れない第2の生産価値が存在します。福祉、文化、人間社会における、お金にならない創造的活動です。こうした活動はベーシックインカムの導入によって、その数を増すでしょう。例えば、健康管理の分野、好意ある生活保護、精神的な活動、人との交わり、自分を鍛えるための習得行為、様々な分野での自由研究、社会に新しいことをもたらす自由企業の設立、合理化もできず、またお金にもならない行為。ベーシックインカムは自身のことを認識するための時間を与えてくれます。


 でもそうしたら、お金で計れる商品価値が減ってしまうのでしょうか?


 たぶんそうかも。多くの人は週に2日しか働かなくなるかもしれないし残った時間でお婆ちゃんの世話でもするのかな?でもそのお婆ちゃんにだって生活基本金があるんです。今日のように自動化が進んだ社会ではベーシックインカムによって生産量が落ちるということはないでしょう。健全で、不安から解放され、自覚を持ち創造性に満ちた社会の基盤の中で多くのことに新しい価値が見出されるでしょう。そして今日まだスタートできない多くが可能になるでしょう。経済は活力を増し、お金で計れる生産価値も向上します。


 あとはいったい何が欠けているのでしょうか?

 「それは信頼です」

 あなたが一番悩むのは?

 「冷淡さです」

 ベーシックインカムは単なる空想、それとも理性?

 「それは論拠のあることだし経済的にも可能だ」




 ではどうしてベーシックインカムが施行できないのでしょうか?

 「それは心の中のコンパスのようなものがまだぶつかり合って、社会が抱える問題と可能性をひとつのまとまりの中で考えることができないからですよ。自分達のしていることが本当に納得のできることなのか?それとも、その納得していることが本当に時代に合っているのかを見てみる必要は無いのか?そうしたことを問うほど人間はまだ進んでいない。だから今あることを維持しようとします。そして学校や大学などをより一層将来の就労に合わせて整備してゆくのです。一度手放してみることができないからです。これこそが病気の兆候ですよ。人間が今いる可能性のある新しい環境の中に時代遅れの感銓袢鉾を突きつけている。この時代遅れの鉾こそ、物事が進歩してゆかない病気の原因なんだと思いますよ」



 「今の社会のシステムが今後も機能してゆくかどうかということではなくて、私達は目に見える別の可能性を作り上げていかなくてはなりません。それがベーシックインカムであると思います。例えそれが今ところどころで行われている地域通貨という形であるとしてもね。それは特別に変わったことでも革命的なことでもないわけだから新しい可能性を示すことのできる良い例です」




 「ベーシックインカムは慈善事業でもなければ単なる資金援助とも違います。それは市民の権利なのです。ベーシックインカムは国家財産を共有できるひと一人一人が持つ権利です」




 無条件のベーシックインカムが将来の目標として既にブラジルの法律に掲げられているのは、スプリーシー上院議員の功績によります。どこの国でだったらベーシックインカムのことを真剣に考えられるでしょうか?

 「エジプトでだって考えられるよ。でも考え方を変えないと...。ヨーロッパで考えられているモデルとは比べることができない。でもエジプトにふさわしく考え観察することはとても重要だ」

 ベーシックインカムはエジプトの人にどんな影響を及ぼすでしょうか?

 「まずは解放。生活が存続できない危機から解放され、まったく違った目で将来を見て可能性を見出せるようになるだろう。今はただ生き延びることのみだから」



 スプリーシーさんは何故ベーシックインカムに力を注いでおられるのでしょうか?

 「真実を見つけたいからだよ。私は道を見つけたい。貧困をなくす道、公正な社会を築く道、所得の配分をより良くする道、権利を獲得するために...。そしていつか誰もが友愛という名のひとつのテーブルに座れる日が訪れること。それを願って戦いたいのです。その昔、マルティンルターキングがsの演説「私には夢がある」で述べたように...」




 「私には夢がある。今日私には夢があるんだ」




 ベーシックインカムは子供から始めることが可能です。例えば2000年に生まれた子供達からです。そして子供達と共に社会の中で育っていきます。




 でも考え方を変えれば自分の所得でも始められます。

 「給料を払う時に私達は、もたらされる業績を決算するわけではなく、給料によって共同体への寄与を可能にしているんだよ。従業員の労働はお金で支払えるものではなく、給料によって仕事をすることが可能になっているんだよ」




 ベーシックインカムはひとつの地域からでも始められます。例えば一つの州、或いはひとつの街、例えばグライフスヴァルトでも。




 人々を条件無しで財政的に自由にするならば財団でも始めることが可能です。


 「国家が金銭的にも援助することがある財団法人では、自由な精神活動や福祉活動を経済的に助けるための準備ができているはずです。でもそこには社会福祉や文化活動のプロとして中心で支える人間が欠けているんです。それに代わってやれ企画書だの、構成や基準がどうのこうのといったことばかり。人間個人について真剣に考えていないんですよ」




 その個性こそベーシックインカムによって真剣に捉えられるようになります。それとは裏腹な意見として人はその個性に信用がおけなくなっていて自分の考えもないし、自分から何かを始めようともしない...と言う人もいます。


 ではフランクフルト失業者対策センター代表ボンマースハイムさんの見解は?

 「皆、自分の考えは持っていますよ。でも何ができるのか、許されるのか、望まれているのか、ということを正しく考えられず、その正しくない想像による生活への不安によって埋没してしまっています。ベーシックインカムが導入されれば皆にもっと力が沸くのは間違いないと私は納得しています。要するにそれは再び経済と社会に還元されるということです。そこで疑問に挙がるのは、生活基本金が支給されたら人々が仕事に戻る率が上がるのか?ということですけれど...とても高い率で上がると私は思います」




 では私達は人に投資を始めなければなりませんね。でもそれは私がとっても嫌いな人にでも行われる投資ですよ。


 「それこそとても重要だと僕は思うね」




 「私は今までずっと規律ある生活をするように努力してきたし意義あることを行うように務めてきた。でもあそこにウロウロしている若者達には秩序も何もありゃしない。そんな人達にまで金を配るなんてスキャンダルだ。こういう見解を持つ人達は心のどこかでベーシックインカムを拒んでいるのです。でもこういう言い方をしては品がないし、そういう意見は悪い印象を与えます。だから言葉を変えて「どうやって資金を調達できるのか?」と言うのです」




 「私達人間を解放するために仕事を機械化してきましたが、今度は逆に職場が無くなって溜息をついているわけです。そして誰も「まったく忌々しい。今までずっとそのことに対処してきたのだから今さらもうやることは無い」なんて言える政党は無いのですよ。それがとっても腹にたつわ」




 「とっても大切なのは、正に個人的な「妬み」の問題です。何で他の人が自分よりも恵まれなければならないのかという妬みです。そしてこの妬みがベーシックインカムで打ち砕かれるのです。人が自身をこうした妬みから解放できれば、その人はベーシックインカムのためにばかりではなく自身の健全な精神と社会に生きる人間としての能力のために貢献したことになるのです」



2009/12/02 作成

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