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サバタイ派とメーソンの起源

うんこ色 -BLOG-:ソーゾー君へより引用編集

ルーリア派カバラの思想体系の影響が色濃く、メシア待望思想を基盤とする。

1666年を黙示録の年として、サバタイは自分の信ずる救世主としての役割を宣言した。

時代背景

17世紀初頭、中近東から東欧圏にかけての一帯は「救世主待望の時代」を迎えており、それは「黙示録の時代」とも言われる。

○1648年のポーランドでのウクライナ独立運動では推定10万人のユダヤ人が虐殺される。この事件に東欧系ユダヤ人(アシュケナジ)は強い衝撃を受け、より救世主待望の機運が高まった。

○スペインのユダヤ人大追放等、各地でのユダヤ人迫害に対する反動としてユダヤ神学は変貌期にあった。

運動

アシュケナジ系ユダヤ人である、ナタン・ガザッティ(サバタイ運動の理論的指導者)が預言者として1665年の春に次のように宣言した。

「来年(1666年)の半ば頃、栄光のうちに救世主が現れる。救世主は回教王の桎梏を取り除き、地上の総ての国々の上にイスラエルの領土をつくり、それを支配するであろう。トルコ帝国は救世主サバタイ・ツヴァイに総てを委託し、彼はほかの国々を征服するであろう」

およそ、上記のごとき内容であったとされる。

エルサレムの聖職者(ラビ)達の反応は激しい怒りに満ちたものであった。そこでガザッティはエルサレムでなくガザが新しい聖都となると宣言した。

ユダヤ教の聖職者(ラビ)は苦しめられる事になったが、ガザッティの宣言と回覧文書はヨーロッパ各地に於いても凄まじい反応を呼び起こした。

「救世主はユダヤの失われた十支族を従えて聖都に帰還してくる」

「救世主は獅子にまたがり、七つの頭のある竜の顎の上に乗って聖都に帰還してくる」

等。

そして、1666年の正月にサバタイは故郷スミルナのシナゴーグに於いて救世主としての戴冠式をすませた後、反対勢力の一掃に着手する。

次第に高名なユダヤ教聖職者(ラビ)にも多くのサバタイ信奉者が現れ、救世主サバタイがイスラエルを建国するという噂がヨーロッパ各地のユダヤ人居住区にも伝わっていた。

しかし、サバタイ一行がコンスタンチノープルに上陸するとサバタイはトルコ総理大臣アーマド・ケルプリリの命令によって逮捕された。

1966年9月16日、モハメッド四世(回教王)はサバタイに回教徒に改宗するか死を選ぶかの決断を迫った。

サバタイは改宗し、信奉者の激しい失望を招いた。

しかし、サバタイは1668年3月、過越祭の日に再び聖霊が宿ったとして、神秘的信念を伝えた。そして遂に、回教徒とユダヤ教徒による新集団を結成させた。(永続的なものではなくやがて信徒は四散してしまったとされる。)

サバタイ派からフリーメーソンへ

サバタイの死後、その信奉者らにより彼らの失敗と教訓を基とし、新たな組織が計画された。

フリーメーソンである。

フリーメーソンの入会資格として「何かしらの信仰を持つこと」が条件である。そしてそのロッジを世界中に普及させる事により、フリーメーソンは時として、宗教や宗派、そしてあらゆる国家の上位に君臨することが可能となったのである。

つまり、サバタイ的手法とは敵をも取り込むという事である。

手法として見た場合、一概に否定しきれない。実際、サバタイに関しては事あるごとに再評価の動きも見られる。

そして時として、紛争の和解等、現代に於けるサバタイ的英雄が出現する。

それは勿論、あくまでも手法として見た場合に限られる。

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